7月2012

地頭力強化の好循環

この頃大学生の就職場面で、採用の判断に地頭力を重要視しているという記事がありま

 

した。世間で言う地頭力のあるタイプとは、あらゆる問題を解決する上での「考える力」

 

が強いタイプのことだそうです。そして「考える」だでなくそれを「実行する力」も含ま

 

れるとか。これは知識の集積度を測る現在の学校の評価ではなかなか表現しにくい内容と

 

思われます。

 

 

とある小学生がこの「地頭力」を評価してもらったと思しきエピソードを紹介します。

 

今から45年も前の小学校4年生の教室である。夏休みが終わって皆、夏休みの宿題の

 

図画工作を携え登校してきた。きれいに仕上げのラッカーを塗ったヨットの模型や夏の

 

海岸を写生した絵、皆力作ぞろいであった。一人の少年が大きな風呂敷包みをもって不

 

安そうな顔をして自分の席に座っている。だれかが「見せろよ」といって中を覗こうと

 

しても中身を見せなかった。昔の先生はクラスの皆が見ている前で一人一人の作品を評

 

価し、名札に「優・良」のゴム印を押して行った。皆ドキドキしながら自分の番を待っ

 

ていた。大体の児童は「優」をもらっていた。「良」の子がいたかどうか定かではない。

 

そのうち先程の風呂敷包みの少年の番になった。風呂敷を開くと中から白い画用紙で作っ

 

た風力計の模型が出てきた。3つの風杯を持ち、軸には2枚のベルト状の画用紙が張り付

 

けられその先に小さな粘土の重りがついていた。強い風が吹くと風力計は早く周り、粘

 

土の重りが回る半径が大きくなるという代物。画用紙の本体・風杯は画用紙のままで無着

 

色、おまけに接着に使った黄色いボンドがあちこちからはみ出していてお世辞にも出来

 

がよいとは言えなかった。クラスの皆が気の毒そうな目で見る中、先生の前にこの作品

 

を提出した。この先生は厳しいことで有名で、当時許されていた「愛のむち」もよく振

 

るわれた。少年はおそるおそる先生の顔を覗いた。先生は「ムーン」と一度唸ると動か

 

なかった。少年が下を向き続けていると、先生はやおらゴム印を取り出し名札のところ

 

に押した。少年は薄目でゴム印を見ると「秀」となっていた。先生は立ち上がり教室の

 

皆に話し始めた。「この作品はきれいにはできていない。しかし、風の速さを表す工夫

 

がよくできている。この工夫を工作として作ってきたことがたいへんよい。」少年はぽ

 

かんとしていたが、少なくとも叱られなかったがうれしかったようだ。後で聞いたのだ

 

が、少年は工作の宿題を前日にやっつけでやって、それが分かって先生に叱られるので

 

はないかとヒヤヒヤしていたということであった。

 

 

今回のこの話はある意味あまり褒められた話ではありませんが、工夫をしたものを自

 

力で形にして持ってきたことに対し先生が評価をしてくださったことがポイントとなり

 

ます。どの子も地頭力はこのようなちょっとした場面に顔を出しているのかもしれません。

 

子供たちが工夫をして何かをしたり、しようとしていたらまず褒めることが肝要と思い

 

ます。それがその子にとって「人生のやる気」を助長し地頭力強化になる好循環が見え

 

ます。ものの本によると地頭力は遺伝的要因より後天的要因の方が大きく、また60歳を

 

過ぎても発達する可能性があるそうです。年齢に関係なくだれにでもこの好循環は「プ

 

ラス」であること間違いないと思います。

 

地頭力、そして夏休みの計画‏

 ここ2回に渡って「やる気」と「ワーキングメモリー」について述べてきました。双方とも子供が学習をしていく上というより育っていく上で重要な要素です。近年地頭力という概念が世の中で語られることが多くありますが、その内容を分解すると「やる気」と「ワーキングメモリー」にできるようです。地頭力とはもともと数学やパズルを解くのが得意な「考える力」が強いことを言います。それから派生し問題を解決する上での基本の力が強いということになっているようです。

 「地頭力を強くすること」は人が生きていく上でどの場面でもプラスに働きます。しかしその強くなっていく傾向の個人差が大きいのも事実です。日ごろの心がけ次第では60歳まで発展可能のようです。問題はその「日ごろの心がけ」となってきます。特に小・中学生はその「日ごろの心がけ」が何か、どうして行けばよいかを定着させる時期と思います。私が推奨する「日ごろの心がけ」の一つは、「やらなければならないことはサッサとやる」です。これは勉強以外で「地頭力を強くする」直接的な方法だと思います。「やらなければならないこと」を確定し優先順位をつけ、自分の予定を整理し、実行にあたって合理的な方法を考える。ルーチンワークに見える内容も自分でやり繰りしながら行うとそれはもう学習そのものです。受験勉強するときに時間をとって勉強の計画をたてることが重要です。これも「やり繰り」の訓練で学習の一環と位置付ける必要があります。実現可能な計画を実行し完遂することは「やる気」を継続することに繋がります。

 夏休みに入るこの時期に「夏休み期間の予定」「夏休みの学習予定」「夏休みの1日の生活予定」を計画するのは立派な学習行為です。どんな簡単な計画でも構いません。実現可能なことが必須です。小学生ではこの「予定表」が夏休みの宿題で提出課題となっていることも多いかと思います。塾生の皆さん、楽しい計画を立て、有意義な夏休みを過ごしていってもらいたいと思います。

脳のワーキングメモリー

 脳の働きには「記憶する」「思考する」などがありますが、その作業を行うために頻繁に使用されるのが「ワーキングメモリー」と称される基礎的部分です。現在はコンピューターの普及によって、中央演算部(CPU)とメモリー(RAM)の関係がよく認識されています。まずメモリーに必要な数値を置き、次にその数値を中央演算部で演算しその結果をメモリーに再度置く。これが脳の中でも行われているのです。ワーキングメモリーとは「作業のための記憶」何らかの知的作業を行うために外部から情報や記憶を一時的に記憶することです。言い換えれば、脳のメモ帳に一時的に貼り付け作業をすることです。

 ワーキングメモリーを使っていることを実感する脳トレの例をあげてみましょう。
 まず、四つの言葉を覚えていただきます。「いす・さくら・みぞれ・まゆげ」
 その後「天の川」を反対から声に出して言っていただきます。
 最後に最初に覚えていただいた四つの言葉を思い出して声に出してください。

 ワーキングメモリー、脳のメモ帳をいくつも使っているのを感じることができるかと思います。これ以外にもいろいろな方法が「脳トレ」として世間に出回っています。メモをたくさん張って使うことができることが昔から「頭がよい」とか「回転が速い」といわれてきたのだと思います。これを伸ばすことが子供にとって最も必要なことで、中高年にとってはなるべく維持することが課題となると思います。ワーキングメモリーは脳の他の部分と違い、成人までゆっくり発達し、その後ゆっくり落ちてきますが個人差が大きくなっています。傾向として年をとっても頭を使っている方のほうが落ちにくいようです。

 従来からある学校教育はこのワーキングメモリーを鍛える内容が満載です。漢字の書き取りをする場合もお手本を一時的に記憶しないとできません。繰り上がり繰り下がりのある計算もそれを一時的に記憶しないとできません。算数や数学で文章題を解くときも文章の内容を式に置き換える間一時的に記憶します。これらの内容を駆使できることが教育の目的のひとつなのだと思います。しかし学校の勉強に飽きてしまった場合、先程紹介した「脳トレ」を行うことでもってワーキングメモリーを鍛え、その後いつもの勉強を行うことも一つの方法かと思います。

やる気の正体

人の行動には無意識に行えることが多く在ります。物を食べる時、物の位置を確認し、口の大きさをそれに合わせて開ける設定をいちいちしながら行うことはありません。一連の行動として行っています。この場合、人は一連の行動を司る脳(線条体)が受け持ちます。自転車が乗れないうちは、いわゆる前頭葉を駆使して練習しますが、乗れるようになるとこの線条体が受け持ち、言語で表現することは必要としない行動として長く記憶されます。そして自転車に乗る時、気分が爽快だったりします。これはこの行動に対してドーパミンが分泌され「気持ちいい・いい感じ」の行動として記憶に蓄積されていきます。なにかを再挑戦をする場合、この「いい感じ」を追って行動を再現しているようです。諏訪東京理科大篠原菊紀教授よると、この動作と手順と「いい感じ」(快)の結びつきこそ「やる気」の正体ということだそうです。そしてその「やる気」を育てる基本は「強烈に誉めて待つ」ということです。

しかし一方で一旦は「やる気」を持ったとしてもそれが持続しないということが起こります。これに対して東京大学森俊夫助教は「人が行動を変えるのは、具体的で実行可能な行動の形で未来が見えたとき」と言うます。そして「具体的で実行可能な行動の形でゴールを描けると人は勝手に変わる」と続けています。この「勝手に変わる」ところに真実をとても感じます。そして塾の使命はこのゴールを描き塾生に提示し続けることと肝に銘じる必要があります。また目標は「評価可能な(できれば数字の入った)行動の形」になっているものです。目標ができたかできないか評価しやすいことは必須のようです。「やる気」は自然に湧いてくるものではなく、作るものであるということを改めて考えさせられた内容でした。

勉強法と写経

 中学生が英語や数学を勉強していく上で、どこまでできるようになったらその単元の勉強は一区切りか自分で決めるのは難しいことがあります。確かに学校や塾の宿題を全て終わらせれば区切りというのも一案ですが、自分で自己評価する目安について第二教室の塾生たちに「英語の勉強の到達指標は英作文ができること、数学の勉強の到達指標は文章題・証明問題ができること」と私は言っています。どちらも今までの総力を挙げなければできないものです。文法と単語を駆使しなければ英作文はできません。文章題は文意を理解し式を立て計算する、証明問題は問題設定を確認し、一定の論理に従って進め解法を完成させる。どちらも最低限の作法にしたがって書き下ろしていかないと「解答」にすることはできません。英単語の並べ替えをして行う英作文や、「証明」を穴埋めしていくことで追っていく誘導問題はできたとしても、最初から最後まで全て自分で書かなければならない「英作文」や「文章題・証明問題」は大変手強いです。多分これは「問題が難しい」ということと共に「書いていく作法が身についていない」ということが大きいようです。

 もし、解答をどのように書いたらよいかわからない場合、解決法の第一は「解答の書き写し」だと思います。解答を写経するように書き写すのです。一度書き写すことで「書く作法も解答内容も」全てがわかるようになるとはなりませんが、2回3回と書いていくうちに書く作法が分かると共に、自分の分かる所と分からない所を分けることができるようになります。絞り込まれた分からないところを熟考するうちに「はっと!」分かるようになります。このときにはもう解法の書き方・和文英訳など、何も見ないで書くことができるようになっているものです。少々時間がかかり遠回りのように見えますが、この方法がより確実だと思います。

 仏教の修行の中に写経があります。今では多くの一般の人が宿坊に泊まり、座禅を組まれたり般若心経を写経されます。写経をする場合、その奥深い経文の意味を把握するレベルは人によって違います。また同じ人でも理解するレベルがその時々で違ってくるのだと思います。その微妙な違いを考えることに写経の妙味があるように思います。

 勉強の場合の書き写しは、解答そのものは解釈にそれ程違いがあることはないのですが、前にそれを解いた時の個人の感じ方・在り様が相当違ってくる可能性があります。その違いを感じることによって人は(児童・生徒は)自ら「成長」を感じるのではないでしょうか。